1906年(明治39年)駆け出しの挿絵画家だった夢二は、
早稲田で絵ハガキ店を営んでた女主人:たまきと出会い、
後日プロポーズ、出会いからわずか2か月で結婚する
たまきと結婚した夢二は、美人画を描き、大ブレイク
美人画のモデルは、妻のたまきだった
 
しかしプレイボーイの夢二は、甘いマスクと甘い言葉で次々と女性と浮気する
それでも、夢二の才能に惚れこんでいたたまきは、決して見放さなかった
 
夢二の代表作「黒船屋」は、たまきをモデルにした美人画ではなく、
11歳年下の弟子:彦乃をモデルにした作品だった
夢二の愛情が自分から離れたことを知ったたまきは、浮気相手の彦乃の両親の元へ
「夢二のお嫁さんに娘さんをいただきたい。夢二さんの芸術に彦乃さんは無くてはならない存在。私は身を引きますのでお願いします」
たまきは身を引き、夢二と彦乃の仲を取り持った
夢二は彦乃と同棲を始めた
 
51歳の夢二は、結核を患い、長野県の富士見高原療養所で亡くなった
たまきは夢二の死後、療養所を訪ね、お世話になったお礼にと無償で3か月働いた

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明治3年(1870年)8月18日、兵庫県出石町で誕生
実家は貧しい農家で冬は豪雪地帯となる寒村
当時、人々のまだ身分に対する意識は、江戸時代と変わっていなかった
農民が暮らしやすい国をつくるには、どうしたらいい?
幼い時から、そう考えていた斉藤は、18歳の時に上京した
しかし汽車や船に乗るお金はない
斉藤は18日間かけて歩き続けた
 
上京した斉藤は苦学の末、明治45年(1912年)衆議院議員に初当選
 
太平洋戦争に突入する真珠湾攻撃の1年前、
軍部は暴走、政治に介入し議会を牛耳ろうとしていた
政府の要人たちが青年将校により
暗殺された二・二六事件が起きる中、
斉藤は危険を顧みず、軍部を徹底批判する本を出版
戦争に突き進もうとする日本を何とか止めようとしていた
軍部は、斉藤を護衛という名目で四六時中 警察や軍に監視
 
昭和12年(1937年) 日中戦争勃発
さらに昭和13年(1938年)、
議会の承認なしに国民を戦争に
動員できる国家総動員法が成立してしまう
 
日中戦争で疲弊している国民を救わなければならないと、
昭和15年(1940年)2月2日、第75帝国議会
当時の政府は、軍部の思いのままに傀儡状態
批判すれば殺される可能性もある中、
国民の声を届けるため斉藤はタブーを発言した
「一体 日中戦争はどうなるものであるか?いつ済むのであるか?いつまで続くものであるか?我々が日中戦争の処理を考えうるにあたりましては、寸時も忘れてはならぬものがあるのであります。それは何であるか?他の事ではない二年有半の長きにわたって我が国家国民が払いたるところの絶大なる犠牲であるのであります。ただいたずらに聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがありましたならば、これは現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない」
斉藤の発言は問題視され、議長により議事録から削除されてしまう
そして聖戦を冒とくしたとして懲罰委員会にかけられ、最も重い議員除名処分となる
斉藤の自宅には、脅迫を意味する短刀が送りつけられた
自分はこのまま殺され歴史に埋もれてしまうかもしれない
斉藤は、決死の思いで色紙に一詩を書いた
“私の言ったことは国民の声 批評は世間に委ねるが 百年後の歴史をみて欲しい 正しいか間違っているかは、おのずと明らかになる”
 
戦争が終わり、平和が当たり前となった時代、歴史学者:磯田道史は、露天商でその色紙と出会い、歴史から抹消されながらも戦争を止めようとした斉藤隆夫を知った

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シングルマザーの諸見里さやかさんの次男:玲君は4歳で天国に旅立った
さやかさんのことを「さや」と名前で呼ぶ明るい男の子だった
 
2歳になった玲君は、小児がんで右腎臓摘出手術を行い、
完治を目指し、抗がん剤治療を開始した
薬の副作用で髪の毛は抜け、嘔吐、発熱などの辛い症状が続いた
それでも玲君は前向きに「元気になる」
と抗がん剤も放射線も嫌がらなかった
玲君に病と闘う勇気をくれたのが、アニメのヒーローだった
強いヒーローに憧れていた玲君は、この頃から
「ヒーローは強い。さやのことも玲が守るからね」と言うように
さやかさんに何かあると「大丈夫?玲がいるよ」と声をかけてくれる
治ることを信じ、辛い治療にも耐えた……しかし、腫瘍が肺にも転移
さらに診断で治療法がない悪性腎ラブドイド腫瘍と告げられた
 
通常の5~10倍の抗がん剤をを使う大量化学療法に切り替えた
様々な合併症を引き起こす可能性のある過酷な治療法
副作用で神経が過敏に、ドアを開ける音や太陽の光さえ嫌がり、
さらに喉の粘膜がただれつばを飲み込むだけで激痛が走る
そんな時ですら さやかさんを心配させまいと
「大丈夫。玲は男の子だから、玲は強いから、さやは大丈夫?」
「玲は さやを守るからね」とさやかさんを気遣う
 
過酷な治療を続けるが、腫瘍は無くならず余命3か月を告げたられる
落ち込んでいた さやかさんに
「大丈夫。お空に行っても玲が守るから」と玲君は言った
 
「玲君、大好きだよ」苦しそうな呼吸の中「玲も大好き…」
それが最期の言葉だった

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昭和2年(1927)日本初の本格インドカリーが新宿 中村屋で誕生した
それは、恋と革命の味
 
夫と共に中村屋を創業した相馬黒光は、
島崎藤村や国木田独歩とも親交があり文学界では有名だった
黒光は、英語やロシア語も話せたため
中村屋には外国人の客も多かった
芸術に造詣の深い相馬夫妻は、
若く才能のある芸術家を支援するため、
敷地にある洋館をアトリエとして無償で貸し出していた
 
大正4年(1915)インドは当時イギリスの植民地
インド人のラス・ビハリ・ボースは、
インドの独立運動を進める中心人物
警察に追われてインドを脱出、日本に密入国して亡命を求めていた
政界のフィクサー:頭山満の指示で、ボースを中村屋で匿うことに
匿われたのは、若い芸術家がアトリエとして使っていた部屋
ボースを匿って4か月後、
寄宿舎で暮らしていた娘の俊子が女学校を卒業して戻って来た
このとき、イギリス政府は、ボースを処刑するため
高い賞金をかけ私立探偵を雇って行方を追跡していた
麻布の隠れ家に身を隠したボースとの連絡係として俊子が務めた
大正7年(1918)ボースの逃亡生活が2年も続いた
7月9日、頭山の提案で俊子をボースに嫁がせることに
頭山家で密かに結婚式が行われた
結婚しても逃亡の身、追手が迫れば身を隠し関東各地を転々とした
ボースは逃亡生活を続けながらインドの独立運動を進めた
 
そんなボースの楽しみは、カリー
当時、日本のカレーはカレー粉にメリケン粉を混ぜたルウに
あり合わせの野菜を煮込んだ食べ物
香辛料は、ほとんど入っていなかった
インド人が食べているカリーは、
炒めた玉ねぎを形が無くなるまで煮込み、
たくさんの香辛料と肉や野菜を入れた料理だった
 
大正7年11月、第一次世界大戦が終結
ヨーロッパは疲弊し、イギリスも国力を失った
戦争景気で国力を増した日本は、
イギリスとの同盟を破棄する方向に向かう
イギリスに雇われた探偵も姿が見られなくなった
自由の身となったボースと俊子は、2人の子供を授かった
大正12年(1923)ボースは日本に帰化
大正14年(1925)俊子が重い肺炎を患い、26歳で亡くなった
その2年後、中村屋が喫茶部を作ると聞いて、ボースが訪ねて来た
「ぜひインドカリーをメニューに入れてください。俊子と約束したんです」
昭和2年(1927)6月、中村屋喫茶部がオープン
その看板メニューとして純インド式カリーが誕生
当時カレーライスは10銭だったが、中村屋のインドカリーは80銭
ボースのこだわりで最高級の食材と香辛料を使ったためだった
俊子とボースの思いが詰まったインドカリーは大好評
いつしか恋と革命の味と呼ばれるようになった
 
ボースは俊子亡き後も日本に残り、2人の子供を立派に育て上げた
長男の正秀は、昭和20年 沖縄で戦死した
 
黒光に再婚しないのかと問われたボースは、
俊子との暮らしは幸せだった。
私はあの数年の間に人生の幸福を貰ったと思っている
 
昭和20年(1945) 58歳で亡くなるまで新しい妻を娶ることはなかった

(58)

1977年、神戸で3人姉妹の次女として生まれる
地元の女子大を卒業後、母校の事務員に
28歳のとき、平凡な毎日を変え、私にしかできない仕事をしたいと子供やシングルマザーを助ける団体に連絡を取ってみた
10日間だけでもいいからすぐに現場に来てほしい、との返事
夏休みで特に予定もなかった陽子さんは、何の気もなしに申し出を受けた
現場は日本ではなくフィリピンだった
一度受けた以上断るわけにもいかず、陽子さんは貧しい子供と遊ぶという活動に参加
以来、大学で事務の仕事を続けながら、
まとまった休みが取れるとフィリピンに来て活動に参加するという生活
2年後、陽子さんが体調を崩し、手当してくれた日本人女性の冨田江里子さんと出会った
冨田さんは、フィリピンで助産院を立ち上げ、貧しい人を助けていた有名な人物
「フィリピンには、元気に生まれてきても貧しくて学校に行けない子供たちがたくさんいる。この子たちが学校に行けないことでさらに新しい貧困を生み出している。どこかで誰かがこの負の連鎖を断ち切らなければならない」と冨田さんから聞いた
これこそが自分がやるべきことでは、とはっきりとそう思った
陽子さんは、フィリピン移住を決意
2008年、30歳でフィリピンへ
支援者を募り、資金を集め、自らの貯金もつぎ込み、活動の拠点となる場所を造った
場所ができると学校に通っていない子供の親を説得して子供を集める日々
こうして学校に行けない子供を学校に戻れるように橋渡しする寺子屋のような施設「ウィッシュハウス(希望の家)を開設
そんなある日、施設にガリガリに瘦せ細った1歳9カ月の女の子ユニスちゃんがやって来た
両親が育児放棄し、親戚すらも押し付け合い、誰も面倒を見ようとしない
あらゆる施設をたらいまわしにされ、最期に連れてこられたのが、陽子さんの施設だった
命の危険を感じた陽子さんは、何とかしなけらばと特別にユニスちゃんの世話を引き受けた
医師と相談しながら必死の看病を続けた
ユニスちゃんは次第に健康を取り戻し、体重も少しずつ増えていった
一度が育児放棄した親も改心し、半年間施設に通い育児の訓練を受けた
両親から何とか引き取らせてほしいと懇願されたので、ユニスちゃんを親元に返した
しばらくして、実の母親が与えたミルクを吐き戻し、肺に詰まらせた
しかし治療費がなく病院に行くのが遅れ、ユニスちゃんは意識不明の重体に
陽子さんが病院に駆け付けた時には、もう手遅れの状態だった
一度は救った命、救えたはずの命…2年6か月の命だった
陽子さんはあまりのショックの大きさに施設を閉鎖しようか…そうまで考えていた
その2か月後、またガリガリに痩せ細った少女が連れられてきた
8歳なのに、体重はわずか10㎏、同じ年の子の半分しかない
生まれて間もなく母を亡くし、その1年後に父を亡くし、その後、育ててくれた祖母までも亡くした少女
幼いときから慢性的な栄養失調で、親戚も引き取るのを嫌がった
私がこの子を守らなければ、陽子さんは引き取り、看病を続けた
陽子さんは、今、無事 回復した少女:プリちゃんと一緒に暮らしている

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