Category Archives: サクセス

ムハンマド・アッサーフが育ったのは、パレスチナのガザ地区
歌うことが好きだったムハンマドは、
地元ガザのテレビにも出演するほど上手だった
姉のヌールは、ムハンマドに歌手になるように勧めた
ガザは、イスラエルが封鎖しているので、外に出るのは困難
しかしヌールは、「大丈夫よ。いつか必ずここから出ていける。夢は叶う。スターになるって言って。スターになって世界を変える」
こうしてムハンマドは、大きな夢を抱くようになった
ある日、姉のヌールが病で倒れた
その死の間際「約束する。エジプトで歌うよ」
とムハンマドはヌールに約束した
満足な治療が受けられず、姉:ヌールは11歳で この世を去った
 
時は過ぎて2012年、ムハンマドは22歳に成長
亡き姉:ヌールとの約束を果たすため、
エジプト カイでのオーディション番組への出場を決意する
しかしガザから外に出るのは容易な事ではない
ムハンマドは偽造したビザで脱出を試みる
検問所で「このビザは本物か?」「いいえ 偽造です」
「どうしてもエジプトに行きたいんだ」「なんでだ?」
「コンテストに出る」「何の?」「歌の…」「何か歌ってみろ」
ムハンマドは歌った
すると「驚いた。素晴らしい。神に祝福された声だ。頑張れ、エジプト人を負かしてやれ」
ムハンマドの歌声が検問係の心を動かした
 
無事エジプトに入国し、カイロのオーディション会場に到着した
しかしオーディションに参加するチケットは、
すでに配り終わっていた
ムハンマドは、会場を後にしようとした
そこへ「ちょっと待て。君がトイレで歌っているのを聞いたよ。見事な歌声だ。僕が出るより君が出た方がアラブ人のためになる。受け取ってくれ」
たまたま歌声を聞いた参加者がチケットを譲ってくれた
予選に合格したムハンマドは、順当に勝ち進み本選に出場
見事決勝まで勝ち残ったムハンマドは、優勝した
その瞬間、パレスチナの町に大歓声が起こる
ムハンマドは亡き姉との約束、スターになる夢を叶えた

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幼い頃、親に捨てられ、引き取られた祖父にも
虐待を受けて育ったジョン・ドーラン
ドラックに溺れ、まともな仕事に就くこともできず、
盗みに走っては刑務所暮らしの悪循環
さらにホームレスの仲間にも馴染めずにいた
居場所も無ければ頼る家族や友人もいないどん底の人生だった
 
ジョンは、ホームレスの簡易施設に入ることができた
ある日、同じ施設で暮らしていたベッキーが訪ねて来た
ベッキーはペット禁止の公営住宅に移ることになり、
飼っていた犬のジョージをジョンに押し付けた
ジョージは、3歳のスタッフォードシャー・ブル・テリア
ジョージはジョンの言うことを全く聞かなかった
留守番をさせると部屋中を
荒らしまわるので、仕方なく一緒に連れて出る
徐々にジョージに愛着がわいてきたジョンは、
薬物を断つために薬物中毒の更生プログラムを受け、
治療を受け始めた
 
路上で絵を売るストリート・アーティストを見かける
成績があまり優秀ではなかった少年時代、
唯一学校の教師から褒められたのが、絵を描くことだった
「えっ、おれも絵を描いてみろって?無理だよ いまさら」
それからジョンは来る日も来る日も絵を描き続けた
なけなしのお金でペンや紙を買い、
路上から見える景色をスケッチした
しかし素人の絵が簡単に売れるはずもなく
ジョンの絵は3か月が過ぎても1枚も売れなかった
それでも描き続けた
そんな1人と1匹の姿は、いつしか街で馴染みの光景となっていた
 
冬、コートを着たジョージは、
街の人気者となり写真を撮る人が次々訪れるように
ふとジョンは、ジョージのスケッチを始めた
それまで風景しか描いたことがなかった
ジョンにとって初めて描く動物の絵だった
「これ おいくら?」「買ってくれるんですか?」
ジョンが自分の腕で稼いだ最初の絵だった
それ以降、ジョージを描いたジョンの絵は、少しずつ売れ始めた
ホームレスが描く可愛い犬の絵の噂は、
瞬く間に広がり、ジョージの絵はさらに客を呼んだ
2012年「君がジョン・ドーランだね?」「ええ」「君に頼みがあるんだ」
声をかけてきたのは、アーティストのシチズン・ケーンだった
「今 ロンドンで活躍しているアーティストを集めて大きな展覧会をやろうと思っているんだが、そこに君も是非参加してもらえないかな?」
2013年9月、ジョンにとって初めての展覧会が開かれた
参加したのは著名なアーティストばかり
展覧会は大きな評判を呼び、客が押し寄せた
その中で一番の売り上げを記録したのは、ジョンだった
出品された彼の絵は全て完売
実に300万円以上の売り上げを記録した
それは新人として前例のない驚異の金額だった
その後、ジョンはパリやサンフランシスコでも個展を開催
これまでに4000点以上の作品を売り上げている

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2012年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥
体の様々な細胞に変化できるiPS細胞を生み出した
山中は日本の多くの研究者と違う点がある
それは、一つのテーマを研究し続けるのではなく、
テーマを次々と変えた異例の研究スタイル

 

1936年、34歳でアメリカから帰国、新しい環境で研究に取り掛かった
しかし待っていたのは、実験用のマウスの世話
その数、200匹、これが山中には苦痛だった
アメリカではマウスの世話をする専門のスタッフがいた

 

僕は研究者なのか、ネズミの世話係なのか、いったい何をやってるんだ
肝心の研究に専念できないストレスに襲われていた
山中の周りには同じ研究をする同僚も少なかった

 

実は、山中は当初、血圧の研究をしていた
その後も動脈硬化、がんなど次々と研究テーマを変えた
同じことを長くやる事が研究者にとっての勲章という考えが日本では普通
日本でどんな風に評価されるんだろう、と山中の不安は大きかった

 

そんなある日、とある講演会に訪れた
話していたのはノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進
山中にとっては雲の上の人物
講演会が終わった後の質問タイムで、意を決し 悩みをぶつけた
「日本では研究テーマの一貫性が評価の対象になっていますが、それについて先生どうお考えか?」
恐る恐る質問する山中
「別に持続性なんかなくたっていいと思います。面白いことを科学者はやるべきであって。僕は割と飽きるたちですから、同じテーマを一生やるなんて考えられない」
利根川の言葉で、山中は救われた

 

一貫性にとらわれず面白いことをやる
このわずか4年後、山中は人のiPS細胞を生み出した
利根川進の現在の研究テーマは、ノーベル賞を受賞した免疫学ではなく脳の研究

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天才棋士:村山聖

 

将棋界の帝王:羽生善治いわく

「誰も気づかないような意外性のある手を指せる棋士」

彼は生前、羽生善治の最大のライバルと呼ばれた

 

●病と闘い 29歳で燃え尽きた天才棋士:村山聖

1969年6月15日、広島に生まれた

5歳の時、原因不明の高熱の襲われる

「ネフローゼ症候群という病気にかかっています」

当時はネフローゼ症候群を完治できる治療法が無かった

発見が遅れ、病を進行させたのは自分だと、母は負い目を感じた

その後、村山は病院と療養所の入退院を繰り返した

 

ネフローゼ症候群は、

尿と共にタンパク質まで排出されてしまい体のむくみが生じる

むくみがあるうちは塩分を控えるなどの食事制限が必要となる

 

病院内で授業を受ける院内学級に通う

外で遊ぶことも好きなモノを食べる事も出来ない生活が続いた

 

1975年、父親から将棋盤と駒をプレゼントされた

すると悩める少年の心を一瞬で虜にした

夜はスタンドの明かりを頼りに寝る間を惜しんで将棋に打ち込む

1980年8月25日、中国地区 子供名人戦で優勝

中学に上がる頃には、もはやまわりに敵はなし

少年は自分の居場所を見つけた

 

1982年、「将棋の奨励会に入りたい。プロの将棋指しになりたい」

息子の告白に困惑する両親

「お前の気持ちはよくわかるが、親として賛成はできない」

13歳、病を抱えた息子を旅立たせる事に両親は反対した

すると「俺には時間がないんだ…今しかないんだ、お願いします」

村山は単身 大阪へ、プロ棋士:森信雄の内弟子となった

1986年、奨励会入会からわずか3年でプロ棋士になった

1995年、破竹の勢いで勝ち星を重ね、

9年後には将棋界のトップ10人が在籍するA級八段に昇りつめた

「ぼくにはね夢が2つあるんだ。1つは名人になって将棋を辞めてのんびり暮らすこと。もう1つは素敵な恋をして結婚し子どもをつくること」

いつしか自ら解禁してしまった酒、食べ物、

充実した日々の代償は すぐそこまで迫っていた

病を患う村山にとって一回の対局にかかる体の負担は大きかった

対局が終わると決まって高熱を出し、

そのたびに広島にいる母親を大阪まで呼んだ

 

1997年、膀胱がんを発症、手術を受けなければ余命6ヶ月と宣告

8時間半に及ぶ大手術を受けて膀胱を全摘出

 

村山は手術からわずか1ヵ月で復帰し、連勝街道を驀進

名人への挑戦権が得られるA級へ再び返り咲いた

そんな村山に立ちはだかったのが、羽生善治

それまでの対戦成績は6勝6敗

村山は羽生とのNHK杯の決勝戦まで勝ち進んだ

 

1998年、がんが再発、そして村山は大一番に挑む

2月28日、宿敵:羽生善治との最後の戦い

がんの再発は世間にひた隠していた

序盤から村山優勢、鬼気迫る村山に押された

村山が夢に手をかけたと思われたその時、

村山の慌てて指した一手が痛恨のミス

そして…「参りました」村山は敗北した

これが羽生との最後の対局となった

 

1998年8月8日、村山は29歳でこの世を去った (8152)

世界ふしぎ発見で紹介

●ローマ法王が認めた日本の彫刻家:奥村信之

バチカン宮殿の奥深く一般の立ち入りが硬く禁じられた部屋に

ヨハネ・パウロ2世のブロンズ像が飾られている

世界平和に尽力した偉大な法王の像を作ったのは一人の日本人 彼は今、ブラッチャーノという小さな町にアトリエを構えている

紀元前に掘られた洞窟で日々創作に打ち込んでいる 1985年、30を超えた奥村は、拠点をイタリアに移した

ミケランジェロ、ベルニーニといったルネッサンスや

バロックを代表する巨人たちの作品を間近にし、

芸術の息吹を感じながら彫刻に取り組みたかった

折からのバブルでイタリア在住の日本人彫刻家には日本からの仕事が殺到

しかしバブルが崩壊すると生活は一変、収入は全く無くなった

救いを求めてイタリアを代表する彫刻家:エミリオ・グレコの門を叩いた

自分の作品を見てもらった

「お前の資質はリアリズムにある。血の通った作品を作れ」と言葉を貰った

相変わらず収入はなく蓄えを食いつぶす生活だった

 

骨格、筋肉、重心の位置、基本から勉強し直した

人間をひたすら観察し、

肉体が透けて見えるようになるまで感覚を鍛え上げた

作品を創り上げては、グレコの下に通う

そんな生活が5年も続き、道しるべだった師匠も世を去った

 

そんな折、夫人を介してボルゲーゼ公爵の像を作る事に

週2回、屋敷に通い半年かけてあらん限りの情熱を注ぎ込んだ

完成したブロンズ像を見た公爵は、押し黙り、ただただ感動していた

リアリズムを極めた像からは人間の内面も浮き上がってくる

 

奥村の名は一気に広まった

そしてカトリックの有力者から

法王ヨハネ・パウロ2世の在位25周年に贈るブロンズ像を依頼される

カトリック教徒11億人の頂点に立つ法王をどう表現すべきか?

写真をつぶさに観察した奥村は、作品にひとつの想いを込めた

法王のエネルギッシュだった60代、威厳にあふれる80代、2つの横顔を刻み込んだ

隆起する血管は若々しさを、ふくよかな輪郭は風格を

2003年、在位25周年記念式典、像を完成させた奥村は法王の前に立った

「ありがとう。ありがとう」と法王は感謝し喜ばれた

 

ブロンズ像はバチカンの心臓と呼ばれる宮殿の一角に置かれている

その反対側にも同じような胸像が置かれていた

それはベルニーニ作のウルバヌス8世の胸像 (2761)

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