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高校時代の黒田は、野球の名門 上宮高校で背番号17の補欠

高校卒業後も野球を続けようと大学のセレクションを受けた

すでにスライダーやシュートを投げる補欠ピッチャーの黒田に

光るものを感じた専修大学 元野球部監督は、

実績のない黒田に推薦文を書き、教頭に頭まで下げたという

専修大学に入学後は、一心不乱に練習に打ち込み その才能が開花

1996年、ドラフト2位で広島カープに入団した

 

●広島残留劇

2006年、低迷するチームの中、個人成績はリーグトップ

すでにFA権を手にしていた黒田は、

資金の少ない市民球団からは出ていくと思われていた

黒田残留の為にファンが横10m×縦7mに縫い合わせた布に

カッティングシートで文字を切り、メッセージが書かれた巨大な旗になった

“我々は共に闘ってきた 今までもこれからも…未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら君の涙になってやる CARPのエース 黒田博樹”

 

2006年10月16日、シーズン最終戦、2枚の旗はライトスタンドにたなびいた

球団を去るであろう黒田は、花道として用意された最終回に登板

黒田はちらりとライトスタンドを見やった

 

2006年11月6日、黒田は記者会見を開いた

「私 黒田博樹はFA権を行使せずに広島東洋カープに残留する事をここで皆様にお伝えしたいと思います」

てっきり他球団と契約すると思われていたため、記者会見場はざわついた

「ファンの皆様の10月14日、16日のスタンドを見て 結局 最後になるとあれが一番 自分の中では大きかった。他球団のユニフォームを着て広島市民球場でカープファン、そしてカープの選手を相手にボールを投げるというのが自分の中で想像がつかなかった」

 

2007年11月30日、メジャーリーグへ移籍表明

1年間も広島に残ってくれた黒田に広島市民は心から感謝し、

メジャーリーグへの挑戦を支持した

その思いを知った黒田は、記者会見で口を開く事なく涙を流した

2007年12月16日、ドジャース入団会見

「初めまして日本のプロ野球 広島東洋カープから来た黒田博樹です」

 

その後 黒田は、日本人初の5年連続 2桁勝利の記録を達成

 

●広島復帰

球団本部長:鈴木清明はシーズンオフで帰国した黒田を毎年のように訪ね、

広島復帰へのラブコールを送り続けた

2014年11月、「で、どうや?」

すると黒田は「40% 引退です。30% メジャーです。30% カープです」

そう聞いた鈴木は「その40%、俺にくれ」

メジャー球団は高額報酬でアメリカ残留を望んでいた

 

2014年12月26日 午前10時11分、黒田から鈴木の携帯に連絡がきた

「もしもし」「黒田です。帰ります」

鈴木はその意味がすぐには理解できなかった

「(帰る?どこへ?)ドジャースか?まさかパドレスか?」

「違います。カープです」

4年で20億円のオファーを蹴って、黒田が広島に帰って来る

 

2015年2月16日、人生2度目の広島入団記者会見

「最後はファンの人達というか球団の熱意も当然ありましたけど、2006年ですかね、僕がFA権最初にとった時にファンの人達に心を動かしてもらったので、逆に今度は自分がファンの人達の気持ちを動かせればいいという気持ちが一番大きかったです。恩返しではないですけど多少なりとも帰ってきたことで喜んでくれる人がいるんであれば、それはそれで僕の中では満足できることだと思います」

 

3月8日、広島×ヤクルト戦、オープン戦にも関わらず、

2万人以上のファンが駆け付けた (1353)

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ザ!世界仰天ニュースで紹介された

福岡ダイエーホークス:藤井将雄 最期の1年間

気迫あふれる強気のピッチングで1年目から活躍

1999年、ホークス悲願の初優勝に貢献した中継ぎのエース

パリーグ最多ホールド賞を獲得

体に異変が現れ始めたのはリーグ優勝を決めた直後

これから日本シリーズという時だった

 

幼い頃、両親は離婚、母は女手一つで子供たちを育てた

毎朝 休むことなく朝市で店を出し、一家を支えた

家計が苦しくても息子に不自由な思いをさせなかった

そんな母の想いに応えるように藤井は練習に励んだ

社会人野球で頭角を現すと1994年、広島アジア大会では

日本代表に選ばれ金メダルを獲得

そしてその年、ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団

●愛する仲間のために生きた藤井将雄

1999年10月13日、健康診断を受けた藤井の肺に影が見つかった

「すぐに入院の手続きをしてもらえますか?」

「来週から日本シリーズが始まる大事な時期なんです。チームにも迷惑かけられないし」

このタイミングで入院する訳にはいかない

藤井は医師を説得し、試合に出た

日本シリーズでは第2戦と第5戦に登板

そしてダイエーホークスはチーム創設以来、初の日本一

1999年11月7日、福岡で凱旋パレード

佐賀に住む母と妹も藤井の雄姿に喜んでいた

この翌日から藤井の闘病生活が始まった

 

1999年11月10日、精密検査の2日後、藤井の実家に病院から連絡が…

本人に伝える前に家族が呼ばれた

「悪性度の高い肺がんになります」と宣告

がんは肺の広い範囲に広がっており、首のリンパ節にも転移していた

抗がん剤や放射線も効果はほとんどない、と説明を受けた

「半年もつかどうか…早くて余命3ヵ月」

血中の酸素量を表す酸素飽和度は通常95%以上だが、

肺機能が低下した藤井は80%ほど

かなり息苦しい状態だという

「本人には伝えていません。ご家族のお考えをお聞きできればと」

 

思い悩んだ末、母と妹はある決断をする

「告知の件なんですが、息子には言わないでください。野球が出来なくなると分かったらあの子は生きる希望を失います」

こうして藤井には隠し通す事を決めた

藤井は余命3ヵ月とは思えない元気な姿

母は妹と藤井の前では気丈に振る舞うと約束していたが…

母は息子を前にして感情を抑えられなかった

「ちょっと明日の仕事の支度をしないといけないから帰るね」

それ以来、母は病院へ行く自信がなくなった

 

病気の事を球団に黙っているわけにはいかない

しかし病気が分かれば来年の契約はない

そうなれば息子は希望を失ってしまう

何とか公にせず王監督に事情を説明したかった

そこで後援会事務局長:北方伸一に協力をお願いした

全てを知った北方は、若田部健一に電話をかけた

藤井と最も仲が良かった当時のエース

若田部の計らいで王監督に直接会う段取りが組まれた

「将雄はもって半年、来シーズンはもう無理です。だからクビで構いません。でも息子には残りの人生 生きる希望を失ってほしくないんです。嘘でいいので契約更改をして頂けないでしょうか?形だけでいんです。お願いします」

と母は王監督にお願いした

「何も心配しなくていいですよ。契約更改は必ずします。ダイエーはそんなケチな球団じゃないですから」

と王監督は母と妹に話した

1999年12月4日、藤井は正式に来季も契約更新され、年俸は倍増だった

命の保証のない選手にこの契約はプロスポーツの世界では考えられない事

契約更改後、王監督から藤井に連絡が、

「ゆっくり焦らず治療してください。若手がバテ始める6月に照準を合わせて戻ってくれればいいですから」

「分かりました。6月には完全復活しますので」

もう一度マウンドに立ちたい、この思いが藤井の心の支えになった

 

藤井の復活への気力は凄まじかった

足腰を鍛えるため、10階の病室まで階段で上り下り

血中の酸素が足らないので激しい運動は無理なはず…

体は病魔に蝕まれていたはずだが、人前では決して苦しい姿を見せなかった

藤井の気迫は病気に勝っていた

2000年1月、これといった治療をするわけでもないので一時帰宅が認められた

王監督との約束を果たすため藤井はトレーニングを続けた

 

そしてついに3月3日、死の宣告から5か月 2軍キャンプに復活した

息苦しさ、体力の低下など本人はかなり辛かったはずだが、

それらを気力で乗り越え、

2000年5月18日、およそ半年ぶりの実践登板

この日計測した球速は最高139キロ

急速は落ちたが、22球の気迫の投球だった

この時、藤井が末期がんを患っているなど誰も思いもしなかった

 

最後に1軍で投げさせてあげようと考えたスタッフから

1軍に上がれと言われたが、「いやまだ2軍で成績残していないから」と断った

 

その後も藤井は2軍の試合に出場。復帰後 6度の登板を果たした

2000年6月15日の登板直後、藤井は突然倒れた

緊急入院

肺に溜まった水を抜くための管が取り付けられた

その頃、がんによる激痛が度々襲った

「痛み止めを出しましょうか?」

「痛み止めなんて、どうしても必要な時は言いますから」

薬を飲めば病に負けたことになる、そう考え痛み止めを拒み続けた

 

2000年9月、ダイエーは2連覇に向けて首位争いをしていた

藤井は少しでもチームの力になれればとチームメイトを勇気づけるメールを送った

ダイエーはリーグ優勝まであと一歩

藤井はチームと共に戦った

2000年10月7日、ダイエーは見事2連覇

王監督胴上げの時、藤井の背番号15のマスコットを持った若田部が映っていた

マスコット人形は王監督と一緒に宙を舞った

優勝から6日後、藤井は31歳の若さで力尽きた

10月16日、葬儀が行われた

去年までチームメイトで藤井を可愛がっていた工藤と若田部は最後まで席を離れなかった

2000年10月21日、第1戦 奇しくも先発のマウンドに立ったのは工藤と若田部

藤井への思いを胸に力投した

 

福岡ドームの15番ゲートは、背番号にちなんで藤井ゲートと呼ばれている

選手のロッカールームにも藤井選手の写真が飾られている (698)

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