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●キルギスの子供たちを救った日本人医師:中島利博

東京医科大学の教授を務め、難病に関する遺伝子を研究していた中島利博

2005年のある日、友人から思わぬ相談を受ける

「キルギスで原因不明の病気が流行して多くの子供たちが苦しんでいるらしい。一度様子を見に行ってくれないか?」

その真相を究明するためキルギスへ渡った

友人の個人的な依頼だったため、渡航費などの費用は全て自己負担

キルギスの病院には、謎の病気に冒された子供たち

良く見るとその手は痙攣していた

子供たちを苦しめる病気の正体を探るため、

キルギス全土を駆け巡り、50カ所以上の病院を調査

病気の正体はリウマチ熱だった

風邪の一種で治療が不十分だと脳や心臓に合併症を起こし、

死に至る可能性もある病

しかし正しく薬を処方すれば簡単に治す事が出来るため、

先進国では何十年も前に根絶された

 

キルギスでリウマチ熱が横行した原因は、極端な意思不足

1991年に起こったソ連の崩壊により、独立直後のキルギスは政治が混乱し経済が破綻

医師の月給が1200円に急下落

そのため多くの医師がは海外へ移住

リウマチ熱の治療のできる経験豊富な医師が残っていなかった

中島医師は、キルギスの若き医師たち10人以上を自費で日本に招き、

高度な医療技術を学ぶ機会を与えた

こうして現在はキルギスの医師がリウマチ熱を治療できるようになり、

数多くの幼い命が救われた

さらに中島医師は日本で募金を集め、リウマチ熱を15分で診察できる検査キットを大量に寄付

8年間に渡り、キルギスで幼い命を救い続けた中島医師は、

その功績からキルギス共和国の国家顧問に任命された (2798)

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海外で活躍した名もなき日本人

2003年、イギリス人のフォールさんが来日し、

初めて日本で語られた物語がある

●420人の敵国兵を救った駆逐艦 雷の艦長:工藤俊作

1901年、山形県高畠町に生まれた工藤俊作

19歳の時、広島県にある江田島の海軍兵学校に入学

そこで後の総理大臣となる鈴木貫太郎 校長から

「惻隠の情」という言葉を受けた

戦った戦士たちが戦闘を終えた後 互いの健闘を称え合い 勝者が敗者を労う

自分より弱い人間を理解し 共感や思いやりが必要という考え方

弱き者を助ける精神こそ日本の武士道と教わった

海軍兵学校を卒業後、海軍少佐に昇進

41歳の時に駆逐艦 雷の艦長に就任した

武士道を実践するべく工藤は、鉄拳制裁を禁止した

鉄拳制裁が横行していた当時の日本海軍において異例の訓示だった

工藤の下、駆逐艦 雷は結束力を強めた

1942年、太平洋戦争の真っただ中、日本は連合国と戦争

インドネシア ジャワ島の北東スラバヤ沖で激しい戦いを繰り広げていた

工藤が艦長を務める駆逐艦 雷も参戦

当時の戦況は日本海軍が圧倒的に優勢

 

イギリスをはじめとする連合国海軍は猛攻撃を受け

フォール少尉が乗る艦エンカウンターは日本軍の戦闘艦に包囲されていた

砲弾がエンカウンターに命中しエンジンが停止

もはや脱出する以外 方法はなかった

こうしてイギリス兵 全員が救命ボートで脱出

その直後、エンカウンターは日本海軍の攻撃によって炎上 海に沈んだ

近くには沈没した他の船の乗組員も含め400名以上が漂流

救命ボートは8隻しかなく全員が乗るには不十分

オランダ軍が助けてくれる、と信じていた

逃げる前に近くにいた味方のオランダ軍の基地にSOS救助要請の無線を打っていた

しかし漂流から20時間経っても助けは来なかった

誰もが死を覚悟していたその時、フォールの前に現れたのが駆逐艦 雷だった

乗組員220人の小型軍艦だが、連合軍の船を3隻も撃沈していた

 

この辺りは前日 日本の輸送船が潜水艦から魚雷攻撃を受け沈没したばかりの危険な海域

漂流物を発見した工藤は戦闘用意を命令

潜水艦に注意するよう指示、漂流物を射程距離に捕らえた

工藤が見たのはボートに掴まり必死に助けを求める400名のイギリス兵

 

目の前に現れたのは敵国の艦、イギリス兵たちは死を覚悟した

しかしどういうわけか攻撃を仕掛けてこない日本軍

その時、工藤は苦悩していた…

目の前で必死に助けを求めるイギリス兵がいる

日本軍戦闘艦の艦長という立場でありながら、もしも救助活動中に攻撃を受け、

艦が沈没するようなことが起きれば処罰され職を失う

工藤が下した決断は「敵兵を救助せよ!」

工藤は武士道の惻隠の情を貫いた

こうして始まった世紀の救助劇

飲まず蔵図で漂流し続けたイギリス兵は縄梯子も昇れない状況

「船の動かすのに必要な最低限の人間だけを残し、あとは全員 救助に向かえ!」

それは日本海軍史上、極めて異例の命令だった

危険海域でありながら戦闘のための人員を裂いて敵を救う

自らの命を顧みない捨て身の救助

さらに日本兵たちは自ら海に飛び込み、体力の限界を迎えていたイギリス兵を救助

自力で上がることができないイギリス兵は体にロープを巻き付けて引き上げた

甲板では油や汚物にまみれているイギリス兵の体を優しく拭き労わる

日本海軍にとっても貴重な食料や真水を与えた

「目の前で救いの手を求めている人間を救う事より大切なことなどない」

と、さらなる漂流者の救助を支持

工藤は溺れていた全てのイギリス兵を救助、その数422人

「諸官は勇敢に戦われた 我々はあなた方を殺めるような事はしない 戦いが終わった今 諸官たちは日本海軍の名誉あるゲストである」

工藤は武士道の精神をもって弱っているイギリス兵たちを労い、最大限の敬意を払った

その後、422人のイギリス兵は、翌日にボルネオ島の病院へ引き渡された

 

実は、これは第二次世界大戦から21世紀になるまで世に出る事のない知られざる話だった

工藤が敵兵を救助した1942年は第二次世界大戦中、

420人もの敵国兵を救った、という話を公表してしまうと

工藤は非国民扱いされ非難の的になる可能性があった

工藤から報告を受けた当時の上官:南雲忠一 中将は、

「この話を公のするのはやめよう、お前は非国民扱いされてしまう。しかしお前は決して間違っていない」

理解ある上司に工藤は庇われ、結果 話は半世紀に渡り 世に出る事はなかった

その後、工藤は雷を降り、別の艦の艦長に就任

直後、雷は敵の攻撃を受け沈没 可愛がっていた当時の部下全員が死亡

そのショックから終戦後 工藤は戦友と連絡をとらず

ひっそりと余生を過ごし、1979年、77年の生涯を終えた

 

フォール少尉は終戦後、イギリスに帰国

1996年、フォールは自叙伝を出版

これにより54年の時を経て、奇跡の物語が世に知られることになった

本の1ページ目には工藤艦長への感謝の念がつづられている

その後、心臓病を患い自らの命が長くないと悟ったフォールは2003年に来日

外務省に出迎えられたフォールは半世紀前の救助劇を語り、

初めて奇跡の物語は日本に伝えられた

その時、工藤の消息を誰も知らず、再会を果たす事は叶わなかった

その5年後、工藤のお墓が判明

するとフォールは、2008年に再び来日し工藤の墓を参った (10342)

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海外で活躍した名もなき日本人

 

ガーナの人を貧困から救いために人生を捧げ、村の長老となり

わずか27歳という若さでこの世を去った武辺寛則

 

●長老になり貧しい村を救い27歳で亡くなった武辺寛則

 

1961年、長崎県佐世保市で生まれた武辺寛則

武辺は10歳の時、ある新聞記事に目が止まった

それはアフリカの貧しい人たちのために助ける日本人の記事

僕もアフリカの貧しい人たちを助けたい、幼い頃からの彼の夢だった

大学卒業後、福岡の商社へ就職、順風満帆な生活を送っていた

しかし商社に入社して2年が経った ある日、武辺は辞表を出し会社を辞めた

「辞めてどうするんだ?」「アフリカに行きます」

安定した職を捨てアフリカへ行くことを決意

1986年、25歳の時、ボランティア団体を通じてガーナへ渡った

当時のガーナは主要産業であるカカオの市場価格の急落により大不況

アフリカの中でも最も貧しい国の一つだった

武辺が訪れたアチュア村は電気や水道も通っていない特に貧しい村

彼がまず行ったのは農業の改革だった

「みなさん、まずは焼き畑農業を止めないといけません」

焼き畑農業は、草木を焼いた灰が肥料になり土壌を改良するが、

数年で地力は落ち、収穫量が減少してしまう

その提案に村人たちは

「俺たちはずっとこのやり方でやってきたんだ。焼き畑農業を止めて今さら何をすればいいんだ」

農業の素人だった武辺はすぐに有効な答えを提示できなかった

しかし彼は村の発展を第一に考え、何度も根気強く村人たちと話し合いを重ねた

その数、半年間で100回

武辺の真摯な姿勢に村人も心を動かされ、いつしか信頼関係が生まれていった

村人たちとの信頼関係を築き、

これからきっとこの村は良い方向に向かう、と思っていた矢先、

大干ばつ(1987年6月)が村を襲った

雨期になっても雨が全く降らず日照り続き

タピオカの原料であるキャッサバやコーンなどの主要作物のほとんどが枯れた

貴重な食料源を失い、村の生活はさらに苦しい状態となり多くの人が村を去った…

武辺は決して下を向く事なく、この難題にも解決策を探し始めた

すると大干ばつで全ての農作物が壊滅する中、

希望の光となるパイナップルを見つけた

それは細長く果汁たっぷりのファンティパイナップル

特徴は干ばつにも負けない暑さへの耐性

それまで村でパイナップルを作っていたのは、わずかに5~6人ほど

しかもその農業技術は未熟で多く作れず自分たちが食べる為だけに栽培していた

「みんなで干ばつに強い このパイナップルを作ろうじゃないか!」

 

安定した収入源になるようパイナップルを村の期間農業にする事業を始めた

武辺が働きかけたところ、村の1/3にあたる65人もの村人が協力

武辺は誰よりも率先して身を粉にして懸命に働いた

希望に光が見えかけたそんな時、武辺はマラリアを発症

過酷な肉体労働で体が弱っていた武辺は1年間に3度もマラリアにかかった

生死の境をさまよった武辺は、マラリアから生還するとすぐに畑を耕し始めた

パイナップル作りを始めて半年経った頃、資金不足に陥った

武辺はガーナの日本大使館へ資金援助の要請に行った

大使館からは思ったような良い返事が得られず、万策尽きたかに思えた

しかし武辺は決して諦めなかった

武辺にとって縁もゆかりもない他の国の大使館にかけあい、

アチュア村への資金援助をお願いした

断られても断られても足を運び、誠意を伝え続け、

ある国の大使館から資金援助の約束をとりつけた

こうして武辺がとりつけた援助のお陰でパイナップルの栽培を続けることができた

 

ある日、武辺は村の首長から呼び出された

「あなたはこの村の最大の恩人です。この村の長老になってほしい」

「貧しいこの村で なたに恩返しができるのは長老という名誉ぐらいしかないのです」

「ぜひ私たちの長老になってください」

こうして武辺は村で首長の次に偉い長老という名誉を与えれることになった

1988年9月24日、26歳の武辺は長老に就任

 

念願のパイナップルの収穫まであと半年…

夢の実現まであとわずかと迫った時…

車を運転することが出来た武辺は、

急病の村人を病院まで運ぶようお願いされた

舗装もされていない道を病院まで猛スピードで走っていたその時、車が横転

武辺はすぐに病院に搬送されたものの手遅れだった

 

武辺寛則 急逝、まだ27歳の若さだった

武辺は志半ばにして短い人生に幕を閉じた

武辺という日本人のリーダーを失ってからも村人は武辺の遺志を継ぎ、

懸命にパイナップル栽培を続けた

そして武辺の死から半年後、念願のパイナップルが実った

しかも畑はそれまでの50倍以上の広さに

25年後、生産量は年間5000トン

パイナップルの収益で村の生活も向上した

ガーナで最も貧しいと言われた村は、今では電気も水道も完備された

 

村は武辺への感謝の気持ちを世代を超えて伝える為にパイナップルの石碑をたてた

石碑には“今は亡き 武辺寛則に捧ぐ…”と刻まれている

亡くなって25年経った今でも村人から彼への感謝の言葉が止まることが無い (5338)

●トルコにあるアツシ・ミヤザキ小中学校

 

アラトト山の麓、ムラディエ村にあるアツシ・ミヤザキ小中学校

 

2011年10月23日、トルコ東部大地震が発生

死傷者1000人以上という甚大な被害を受けた

 

その救援活動のためにこの地に訪れたのが、

AAR Japan難民を助ける会の日本人:宮崎淳

 

宮崎さん等 救援チームは被災者を献身的にサポートし続けた

他の外国の救援隊が帰った後も自分たちの意思で最後までここに留まり救援活動にあたった

 

だが11月9日に発生した余震により宿泊していたホテルが倒壊

宮崎さんは瓦礫の下に取り残され、帰らぬ人となった

 

村では彼に対する感謝の気持ちを常に思い出すため、

忘れない為に彼に名前を学校の名前として残した

 

「自分も大きくなったら宮崎さんと同じように困った人々を助けることが出来る人になりたい」

と学校に通う生徒は語った (1253)

世界を変えるテレビで紹介

●自分が描いた絵本で親友を救う少年:ディラン

アメリカ・ロサンゼルス、ディラン、幼馴染のジョナとは大の仲良し

「チョコレートバー」は2人の間だけで通じる独特の言い回しで

「最高」という意味で使っている

実は、ジョナは自由に食事がすることが出来ない身体

ジョナが患っているのはIB型糖原病という病気

体内にグリコーゲンが異常に蓄積し、極度の低血糖や肝臓障害を引き起こす

そのため血糖をコントロールしなければならず、

コーンスターチを水に溶かしたものを日に7回、胃に直接摂取しなければならない

この病気の解明はまだ進んでおらず、研究には莫大な費用が必要だった

自分と同じものが食べられない親友:ジョナの病気に日々胸を痛めていたディラン

 

ある日、「僕 ジョナの病気が治るように寄付がしたいんだ」

「寄付するってお金はいったいどうするんだい?」

「僕が本を描くんだ。それでその売り上げを寄付するんだよ」

自分で描いた絵本の売り上げを病気を研究する機関に寄付し、

1日でも早く治療法を見つけてもらう事で辛い生活を強いられるジョナの救いたいと思った

早速 絵本を描き始めたディランは、その日のうちに16ページの絵本を描き上げた

はじめは6歳の我が子が描いた絵本を微笑ましい気持ちで読んでいた母は、

感極まって泣いてしまった

そして同じく絵本を読んで感動した父の提案で絵本を製本し、

学校で行われるバザーで売る事に

絵本のタイトルは「チョコレートバー」

チョコレートバーを付けて値段は2000円

6歳の子供が病気の親友の為に自分で描いた絵本を売っている噂は、

あっという間に会場に広がり、20冊の絵本は3時間で完売した

数日後、大手書店で販売会を開催することに

この騒ぎを聞いたテレビ局3社も取材

250人以上が来店し、店内は大盛況となった

このニュースは世界中を駆け巡り、世界43カ国から絵本の注文があるという

“ディズニーランドに行きたいな 行けたらとってもチョコレートバーだね”

…と続き、“そして友達を助けたいな それが最高のチョコレートバーだね”

絵本の最後には、“この本を友達のジョナに捧げます お金は全部ジョナ・ポーナザリアンGSD基金に寄付されます 助けてくれてありがとう”

決して上手くない拙い文字で綴られている

 

寄付も加わり、総額80万ドル(約8000万円)以上を

全てフロリダ大学研究チームに寄付している (2768)

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